常に挑み続ける男がフロンティアを切り拓く

小説家 真山仁

 

「因数分解が得意とか、スパイの無線連絡が凄いとかいう基礎知識は、まず捨ててください」

 忘れもしない二〇二〇年一月、東京大学工学部の古澤明教授の研究室で、初めて会った時に言われた言葉だ。

 そもそも私は、理系がダメだ。中でも、物理は高校時代で、完全に脱落した。

 にもかかわらず、過去に、原発や宇宙開発など、科学技術の先端を担う作品を描いてきた。毎回、基礎知識から始め、自分がどこまで理解し、どこから分からなくなったのかを知った上で、専門家を訪ね、恥ずかしげもなく無知をさらけ出し、支援を乞うた。そして、何とか小説として昇華してきた。

 かと言って、予習して取材に臨めば、何とか理解できる――などと思ったことはない。ただ、分からなくても物語は書けるし、読者も私と変わらないレベルなので、専門家顔負けの知識は不要だと励まして、新作に臨んできた。

 だが、あの時は、正直、なんでこんな難しいジャンルを選んでしまったのかと、後悔と不安を抱えて研究室のドアを叩いた。

 そして、開口一番古澤さんから、言われたのが冒頭の言葉だ。

 えっ、せっかくにわか勉強でつけてきた知識は、不要だって!?

 「スマホでも、何でも、その仕組みを知っていて使っている人なんていないでしょ。だから、そこはいいんです。それより、もっと重要なことを知ってほしい」

 それはそうだがと思いつつ、古澤さんが知ってほしい「もっと重要なこと」に興味を持った。

 「それは、節電です」

 聞き間違えたかと思った。

 だが、さにあらず。

 「AIが進化し社会を変えるために、もっと多数のスーパーコンピューターが必要になると言われています。実は、このスパコン一機に必要な電力は、原発一基分なんです」

 スパコンがフル稼働すると膨大な熱が発生する。コンピューターは、半導体の集積であり、半導体の配線である銅線は、熱に弱い。そこで、コンピューター内には、機内を冷やすシステムが必要だ。その冷却装置に膨大な電力が必要なのだという。

 最近の原発一基分と言えば、一〇〇万キロワットは発電可能だ。それが、スパコン一台に一基に必要なのは、知らなかった。

 「地球温暖化の時代、これ以上、電力を消費していいんでしょうか。だとすれば、電力を消費せず、AIを活用できる新しいコンピューターがあるべきでしょ。それが、光量子コンピューターなんです」

 目から鱗だった。

 それは、素晴らしいじゃないか、と腹落ちした。そして、一気に光量子コンピューターに興味を持った。

 どんなことをしても、モノにしてやろうという決意も湧いた。

 だが、それ以上に凄いと感心したのは、世界最高峰の光量子コンピューターの研究者が、マニアックなスペックではなく、社会に求められている道具として、自身が情熱を注いでいる研究を説明した点だった。

 自分が夢中になることを、他人に説明することは、難しい。ついついあれもこれも知ってほしいと思って、基礎知識を持たない人をそっちのけで、説明するからだ。

 結果、聞いている側は、「よく分からないけど、凄いことを研究している」というカオスに沈んでいく。

 だが、古澤さんは、違った。

 自分の研究対象が、いかに世界の未来にとって重要で、求められているのかをまず説明した。

 この人は、ただ者ではない――。

 私は、光量子コンピューター以上に、古澤明という人物に興味を持った。

 それが、二人の長い付き合いの始まりとなった。

 以来、現在に至るまで、私にとって古澤明とは、私の座右の銘を体現した男だと感じている。

 座右の銘とは、常識を疑え――。

 分かったつもりにならず、何でも疑う。だが、挑戦を止めない。そして、不可能を楽々可能にする。

 古澤さんとの出会いは、小説家としての私に、新しいフロンティアを教えてくれたのだ。